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高校中退NYU生が語る:僕が日本の有名大付属高校をやめた理由

グローバル化が進む中、日本国内でも、長年にわたって続いてきた偏差値基準の進路選択に疑問を感じる人が増え始めている。周りと同じ進路を歩めば将来安泰というわけではない。選択肢は国内だけとも限らない。世界地図を広げて進路を選択する時代だ。前例の少ない道を進むことになるため、学生も親も教員も、何をどうすればいいのかわからない場合も多い。そこで、小泉内閣時代の総務大臣、ダボス会議の現ボードメンバーでもある竹中平蔵氏が行う世界人育成プログラム「竹中平蔵世界塾」の出身者で、UWCへ進学ののち、現在NYUへ通う小杉山浩太朗さんをライターに迎え、自身の経験を共有してもらう。

小杉山さんは、有名大学付属の小中高一貫校に通っていた。つまり、黙っていればエスカレーターで有名大学に進学できたのだ。ところが、彼はその特権を捨てて高校1年で中退し、ユナイテッドワールドカレッジに進学した経歴を持つ。彼はなぜ、そのような大きな決断をしたのか? そして今何を学び、どのようなことを感じているのか?

僕の決断を生んだ運命の日

2013年の夏、当時高校1年生だった僕は、高校生向けのグローバルセミナー「竹中平蔵世界塾」に参加していました。

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私立の小中高一貫校に通いながら、自分が受けている教育に対して、どこか疑問を抱いていた僕は、「教育」の意味を探し続けていました。そんな中、中室牧子先生(慶應義塾大学教授・教育経済学者)が世界塾のゲストスピーカーでいらっしゃった時、「教育」をどう定義するか尋ねてみました。

僕の質問に対して、中室氏は即座にこう回答されました。

「教育は【将来の社会に対する人材資本を通した投資】」

真面目にメモを取っていた当時の私は、この答えが、自分の人生を大きく変えることになるとは思っていませんでした。しかし、その日から僕は、心の中で、この定義について、自分自身で考えるようになっていったのです。

そもそも、社会とはどこなのか、その社会に対して一人の人材として、どのような投資になることが求められているのか。日本と世界に大きな影響力を持つ竹中平蔵教授のもとで、グローバル化の進む社会の中でどう生きていくべきなのかを毎週考えていくにつれ、自分の考えがどんどん具体的になっていきました。

日本人である僕は、生涯にわたって日本社会との繋がりを断つことはできない。そして、その日本社会の人口は、世界人口が急増する中、減少の道を辿っている。世界の人口の中で、日本人の占める割合が急減している中、日本社会はグローバル化の止まらない国際社会と繋がらざるを得ないことを意味しています。

その日本社会は、僕のような人材に何を求めるのか、つまり教育という投資を社会から受けている身として、どのような投資を自らに与えることが、自身の属する社会にとって最善なのだろうか。このようなことを僕は考え続けました。そのような中で、ある重要な概念と出会ったのです。それは、日本の教育改革にとっても鍵となると僕は思っています。

Learning over Studying

「学ぶ」という日本語を英語にすると “Study”または“Learn”と訳されますが、この2つの単語は英語では、意味が全く異なっています。“Study”は、いわゆる知識を詰め込む「お勉強」を指すもので、その成果はテストの点数や偏差値で容易に可視化することができます。一方、“Learn”は、得た知識を個々人がどのように活かし、何を生み出していくかという、教科書を読んで授業を聞いているだけでは身につかないものを学び取ることを指しています。そして、“Learn”の成果は、明確なスコアには表すことができません。

日本人の英語能力が良い例で、僕たちは英文法や単語・イディオムを記憶することは得意なのに、いざ話すとなると突然できなくなりがちです。これは、英語を“Study”しているだけで“Learn”していないからではないでしょうか。

日本人の場合、留学生に対する質問で多いのが「留学しているんですね!英語はペラペラですか?」ですが、世界では必ず「何を勉強しているのですか?」と最初に聞かれます。日本では、英語を知っているかどうかがスゴイことで、世界では、英語を使って何をしているのかが重要視されているということがわかる良い例です。

カナダ人の友人から「日本人(アジア人)は数学が良くできるけれども、歴史に名を残すような素晴らしい数学者はあまりいない」ということを指摘されたことがあります。この時も、日本の教育の“Study”フォーカスを実感しました。新たなものを生み出すための“Learn”の力が足りていないのではないか?と。現在、大学入試改革や新しい入試ジャンルのAO入試が話題ですが、センター試験などのテストスコアで全てが決まる入試システムそのものが”Study”大国の象徴とも言えます。

竹中先生が「高度成長の時代には、Studyでき、上司に従順である東大の体育会系学生が好ましい人材として認識されていた」とおっしゃったのが印象的です。戦後日本の経済成長は、全てを失いながらも国民1人1人の努力による革新的な技術力向上に支えられたという事実があります。これは、弛まぬ“Study”の賜物です。

しかし、冷戦終結後、多くの国が資本主義市場経済に参入し、航空システムの向上で人の流動化が進むにつれてグローバル化が顕著になると、世界中で“Learn”の重要性が語られるようになったといいます。先進国としての存在価値を保つには、ただ知識を“Study”するのではなく、得た知識を活用して新たなものを生み出す“Learn”で競争相手と差別化を図らなければならないと。

これが新たな世界の常識となったとすれば、その競争についていけない者は、容赦なくレースから置いていかれる。それがグローバル社会の現実だということになります。

ならば自分に与える投資(教育)を変えよう。学校をやめよう。

前述のように、当時高校1年生の僕は、グローバル化の進む世界の一員として、教育という投資を社会から受けている身として、どのような投資を自らに与えることが、自身の属する社会にとって最善なのかを考えていました。

そのプロセスで“Learn”と“Study”の違いなどを通して、世界の現状を知る中で、自分には、とにかく“Learn”の経験が欠如していて、このままでは将来の日本の役に立てないと思ったのです。

そして、それまでの人生で、多くの“Study”を経験していたことで、今日のインターネット社会では、“Study”は自分次第で、地球上どこにいてもできると思えるようにもなっていました。だからこそ僕は、この地球上から最善の“Learn”環境を見つけて、自分自身のために、そして日本の将来のために投資したいと考えるようになりました。

“Learn”といっても、自分にとって具体的に何が足りていなかったのでしょうか? それはリアルでなかったということです。当時から将来国際社会の一員としていわゆるグローバルイシューの解決に貢献したいと思っていたこともあり、世界で何が起こっているかという知識を、インターネット等を活用して得てはいました。ところが、結局自分の目で“Reality”、現実を見てはいませんでした。

そんな時に出会ったのがUWC、United World Collegeです。これは現在世界に16校あるインターナショナルスクールで世界約80から100カ国の生徒が奨学金を給付され、16校のうちの1校に派遣されて、高2から高3の時期を共に過ごして学ぶ学校です。

この学校は現在非常に注目を集めていて、時には世界で1番良い学校、または世界で最も変わった学校と言われ、17校目が近々日本に開校することでも話題になっています。生徒1人1人がその国、地域、文化、それらが抱える問題を代表して共に学び合う、それはまさに僕の求めていた「教育」と合致し、最高の投資だと思えました。

この学校を知った瞬間に僕はアプライすることを決め、幸いにも第一志望だったカナダ校のピアソンカレッジに全額奨学金をいただいて進学することができたのです。

出る杭は打たれる。しかし「出すぎた杭」は打たれない。

これは世界塾で竹中教授がおっしゃった言葉です。この言葉を竹中教授がおっしゃったとき、私と教授の間に一瞬のアイコンタクトがありました。ほんの1秒足らずでしたが、それが今も自分の軸となっています。

幼い頃から、「変わった子」という存在だった僕は、時には日本の学校生活を送りながら、「普通」になろうとしたこともありました。しかし、この言葉を聞いてからは、自分は自分のままでいいじゃないか、と思うようになり、さらにUWC進学後は、世界中から集まる生徒と過ごすことで、もはや「スタンダード」すらないことに気づき、将来の日本を、グローバル社会を牽引する存在にするには、多くの変革の必要だと感じました。

日本の教育改革が、現在急ピッチで進められています。グローバルトレンドの視点からすれば、やっとのことです。多くの場面で、人々が教育について話し合っています。教育を変えよう、良くしようと活動している人たちと一度語り合いたいと思います。

そもそも「将来の社会に対する人材資本を通した投資」とは日本に何を意味するのか。将来の日本社会はどうなっているべきなのか。その社会の実現のためには、今何が欠けているのか。そして僕たちはその現実に対して何を投資すべきなのか。

この問いに対する共通認識を、それぞれの立場を越えて、社会全体で共有すべき時が来ているように感じます。言い換えれば、1+1=2という人と、1+1=3という人が、一緒になって2+3という問題を解けるか、ということかもしれません。

日本の教育、そしてそれによってもたらされるグローバル社会における日本の価値は、僕たちが、将来この国がどうなっているべきか、そしてそのためには何が必要なのかを、真剣に語り合い、行動することによって決まると僕は思います。

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