「感動」が共有できるのはリアルだけなのか?――ソーシャルネットとコミュニケーション

「感動」が共有できるのはリアルだけなのか?――ソーシャルネットとコミュニケーション

全世界から注目を集めるオリンピック

2016年8月、ここ日本の裏側にあるブラジル・リオデジャネイロでオリンピック・パラリンピックが開催された。日本を含め、206の国・地域のアスリートたちがそれぞれのチカラを出し切って競い合い、世界中が熱く盛り上がったのは記憶に新しいところだろう。

そして、その競技する姿を観て多くの人たちが感動する。今回はこの「感動」体験の変化とテクノロジーの関係について考察する。

“視聴”の仕方が変わった?

これまでオリンピックと言えば、開催国の会場以外での観るにはテレビの前だけであった。転機となったのは、1964年、ここ日本・東京で開催された東京オリンピックで、「テレビ・オリンピック」と別名が付くほどの現象であった。

それから50年が経ち、テレビでの視聴はもちろんのこと、インターネットを通じ、さまざまな視聴の仕方が選べるようになった。会場での生観戦、テレビ視聴、そして、インターネット視聴。

選択肢が増えたことは、実際に競技を行うアスリートを観る機会が増えただけではなく、観る側の経験そのものを変えているのだ。

画面の前にいるのは一人、でも、気持ちは大勢

どういうことなのか。それは、このインターネット視聴が生み出したのは、“視聴する機会”に加えて、“視聴する仲間”と“仮想空間での応援の空気”だ。

インターネット視聴が生まれる前までは、会場に足を運び、その会場にいる人たち同士で、あるいはテレビの前でテレビの前にいる人たち同士で、視聴し、応援し、応援している選手の結果に対し一喜一憂し、そして感動していた。

しかしインターネット視聴ができるようになり、観ている環境は自分ひとりであっても、インターネット、とくにTwitterやFacebookのようなソーシャルネットワークやソーシャルメディアが登場したことで、インターネット空間で同じ試合、同じ競技を観るという体験ができるようになった。そして、インターネットを媒介にコミュニケーションが図れるようになった結果、感動もリアルタイムで共有できるようになったのだ。これが今説明した“視聴する仲間”と“仮想空間での応援の空気”である。

歴史を紐解いてみると、例に挙げたTwitterのユーザ数は2009年ごろ、Facebookのユーザ数は翌2010年ごろから爆発的に伸び始めた。また、2011年ごろからはiPhoneやAndroid端末などのスマートフォンユーザが増え、いわゆるスマホアプリを通じたスマホ視聴ができるようになり、ソーシャルメディア・ソーシャルネットワークを通じたスポーツ観戦という体験が一般化し始めた。2016年の今年はもうインターネット視聴は特別ではない普通の行為と言っても過言ではない。しかも、多くのユーザがインターネットを通じてコミュニケーションを図り、感動を分かち合っている。こうした動向の数字的裏付けについては、各プラットフォーム運営社が数字と併せてまとめているのでぜひ参考にしてもらいたい。

ちなみに、日本の選手の中で最もいいね!されたInstagramの投稿は、体操日本代表白井健三選手がアップしたこの写真。体操日本代表団体金メダルに日本中が湧いた。そして、この投稿にはたくさんの視聴者からのいいね!が付いている。これこそがまさにインターネットが生み出した感動と言えよう。

olympic champion team😊🇯🇵🎊

Kenzo Shiraiさん(@kenzoshirai)が投稿した写真 –

インターネット空間での体験は本物なのか?

話を戻して、インターネット視聴があたりまえとなり、新しい感動体験が生まれたのはテクノロジーの進化がもたらしたことにほかならない。ここで筆者は感動体験を含め、「インターネット空間での体験ははたして本物(リアル)なのか?」を考えてみたい。

人によってこのさまざまな見解があるだろう。たとえば、オリンピックのようなスポーツ観戦は「その会場、その現場で観て感動することにこそ価値がある」という考え方もある。あるいはテレビの前でみんなで観て、みんなで応援して、人の存在を肌で感じられることが感動を増長するという考え方もある。これらに共通している価値観は「物質的にリアルである」という点だ。そして、リアルに感動が紐付いている。

それではインターネットの世界はどうか? 先ほども説明したとおり、観ているのは自分一人。それもインターネットを通じて観ているだけであり、周りには選手も他の視聴者もいない。仮想なのか? いや、筆者はこれも1つのリアルだと考えている。なぜならインターネットの世界もまた、人間が存在できる新しい場所であり、それがたまたまデジタルという媒体にほかならないからである。

こうした見解については議論の余地があるだろう。しかし、今後ますますインターネット内での体験が増えていくことは予想でき、これから生まれてくる子どもたちにとってはそれがあたりまえになっている可能性は大きい。そのとき、もしインターネットでの体験を知らない大人たちが、先のような「物質的にリアルなもの」以外のものを、頭ごなしに否定せず理解できるか、対応できるかどうか、その転換期を迎えようとしている。

インターネットの世界はもう特別なものではない――筆者はそのことを今、問いかけたい。

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