こんにちは。青木唯有(あおき ゆう)です。日本アクティブラーニング協会および人財教育プロデューサーを務めています。
これまで総合型選抜・学校推薦型選抜(AO・推薦入試)の指導に多く携わってきた経験から、教育界の変化や課題、実社会への影響、親子のあり方など、筆者のブログにて定期的に発信しています。
今回は、総合型選抜などの指導には欠かせないメソッドである「メンタリング」についてお伝えしたいと思います。
「メンタリング」と聞いた時に、まず何をイメージされますか?
TVのバラエティ番組などにある、心理学を駆使して相手の心を読み取っていくメンタリストのようなイメージを思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。もちろん「メンタリング」とはそのような読心術のことではありません。実は、「メンタリング」は、人財育成の分野では非常に重要なアプローチとして活用、実践されています。
通常、人財の指導や育成については、「指導者」と「学習者」という二つの立場に別れることが一般的です。簡単にいうと、「教える側」と「教えられる側」です。これまでの日本の教育は、多くの場合、「教える側」から「教えられる側」に一方方向に情報を伝達するというスタイルが一般的でした。
その結果、「学びとは、黙って、座って、聞くこと」いう認識が強く定着してしまい、誰かからの指示や正解に依存し、自ら考え行動する力が養われないという教育環境の危うさがたびたび指摘されるようになります。
ここから脱却して、学習者の主体性を中心にした学びを構築しようとする試みが、以前の記事でお伝えしたアクティブラーニングですが、「メンタリング」は、それを支えるための重要な教授法です。一般的には以下のように定義されています。
指示や命令によらず、メンター(育成者)の対話と助言によって、メンティー(被育成者)の自発的で自立的な発達を促す育成法のこと。
つまり、「あれをやりなさい」「これをやりなさい」ではなく、 メンターとメンティーの対話を通して、学習者自らの自己教育力を高めていくメソッドです。実は、メンタリングの奥深さは、育成者であるメンターが、いつのまにか被育成者であるメンティーのような感覚になっていくことにあります。
慶應義塾大学では創設者の福澤諭吉による「半学半教」という言葉が今でも伝承されていますが、メンタリングを実践していくと、まさに、指導者も学習者も「生徒であり同時に教師でもある」という相互関係が自然と構築されていくのです。
ちなみに、メンタリングを活用した人財育成は、教育界だけでなく企業などでも導入されています。新人社員の育成のために、先輩社員がメンターとなり、担当する新人社員と定期的に面談しながら、仕事の悩みや意義を自らで解決したり見出したりする力を育もうとする事例が増えているのです。
こうした関係性は、教師と生徒、先輩社員と新人社員という関係にとどまらず、家族の中の親子関係においてもとても参考にできる視点ではないでしょうか?
とは言え、「メンタリングは対話と助言が重要」という情報だけを鵜呑みにして、「言葉でのやり取り」といった形式ばかりに囚われてしまうケースが多いように感じます。しかし、メンタリングは、必ずしも会話の中だけで実践されるものではありません。「他者との会話術」のような方法論ではないのです。
かつて、私が総合型選抜や学校推薦型選抜を指導をしていた際、こんな事例がありました。ある男子高校生が、上智大学外国語学部ロシア語学科の公募制推薦入試に挑戦した時のエピソードです。
彼が、ロシア語に興味を持ったきっかけは、本当にちょっとしたことでした。当時、世間で流行っていたロシアのスパイ映画を観たとき、ロシア語が醸し出す発音に何故だかとても惹かれ、それ以来、動画サイトなどで自分なりにロシア語について調べるようになったのだそうです。
ところが、本人は、特に流暢なロシア語が話せるわけではありません。友人や先輩から、「外国語学部の名門である上智のロシア語学科は、ロシア語ペラペラの帰国子女が有利らしい」というまことしやかな情報も入ってきます。推薦入試の面接の日が近づくごとに、「自分にはやっぱり難しすぎる挑戦だったのではないか」と急激に自信を失っていくようになります。
「自分の志望校の設定は、やっぱり安易だったのではないか?」
「ロシア語学科を志望するのには、ふさわしい自分ではないのではないか?」
本人が迷い悩んでいる様子を目の当たりにした母親も、ロシアについて詳しいわけでもありませんし、もちろん行ったことすらありません。
「我が子に対してどのように助言をすればよいのか?親として自分にできることは何だろうか・・・?」悩んだ末に、母親がとった行動があります。
それは、毎日、ロシア料理を作ること。
サッカー部だったその高校生は、秋まで部活動と受験を両立させなければなりませんでした。学校で授業を受け、放課後は部活、その後塾に通って帰宅する・・・。そんな受験生活を送る我が子のために、毎日のようにせっせとロシア料理を作りました。
ボルシチ
ピロシキ
ビーフストロガノフ
そうした母親の料理をきっかけに、ロシアについてあれやこれやと家族の中で毎日のように対話が生まれるようになります。何よりも、母親が作るロシア料理を食べ、その愛情を感じた本人の気持ちがとても前向きなものに変化したのでしょう。
面接当日、彼の前の受験生は、やっぱりロシア語ペラペラの帰国子女だったそうで、部屋からは面接官とロシア語で会話する声が漏れてきたそうです。
ですが、彼は、「自分は自分。帰国子女だからとか、言語が話せるからという理由で志望したわけではない。自分の心からのロシアへの関心を伝えよう。憧れの志望校の教授に、自分の思いを直接伝えられる場に感謝しよう。」と、気持ちが乱されることなく面接に臨みました。
結果、見事に合格したのです。
もちろんこの高校生は、塾に通い専門の指導を受けていましたし、それなりの準備もしっかりと行っていました。ただし、その前提として、保護者の方のメンターとしてのバックアップが、本人の自尊心を高め、「自立」を促すことに大きく貢献したことは、間違いありません。
実は、私がこのエピソードを聞いたのは、この受験生が合格した後だったのですが、この事実を知った時に、「なるほど」と思いました。思い当たる節があったのです。
自信をすっかり失っていた彼が、ある日を境に激変したのです。そう感じたのは、私が面接官役となり、本人と面接のシミュレーションを行なった時です。それは、こんなやり取りでした。
面接官
「なぜ、我が校の推薦入試を受けようと思ったのですか?」
本人
「推薦入試を受けることで、自分にとっての学ぶ理由が何かを明確にし
た上で入学したいと思ったからです。」
面接官
「明確になりましたか?」
本人
「とても明確になりました。それと同時に、自分の未熟さにも気がつき
ました。だからこそ、自分が色々な人のおかげで存在できていることを、心から実感できました。これは本当に大きな収穫でした。」
文字だけだとちょっと伝わりにくいのですが、このやり取りには、彼の心からの強い実感と信念がありました。そして、ご家庭で、お母様がせっせとロシア料理をつくってくださっていたのが、まさにこの頃だったのです。何よりも私が強く感じたことは、彼の中に芽生えた本質的な「自立」です。
総合型選抜や学校推薦型選抜などのような人物重視と言われる入試は、一見すると自分の強みや能力、可能性をアピールする試験であると捉えられがちです。
ー自分にはこれだけの資質がある
ーこんなことやあんなことが出来る
ー自分とはすごい人間だ
そんな風に、さまざまな武器や鎧をまとって、受験に臨まなければいけないと、多くの人が考えていることでしょう。もちろん、そうしたセルフプロデュースは必要ではありますが、一歩間違えると、「自分が一番」というエゴイスティックな姿勢を植えつけてしまう危険もあります。そうならないために必要なことが、実は、本当の意味での「自立」だと思うのです。
「自立」という言葉を辞書などで引くと、「他者の助けや支配を必要とせず、自分一人で物事を行うこと」と定義されるでしょう。
もちろん、これは正しい説明だと思いますが、私がこれまで総合型選抜などの指導を通じて感じている「自立」の定義は、やや異なります。
「自立」とは、おかげさまを知ること。
自分が立っていられるのは、そもそも、それを支える大地があるからです。その大地が荒廃し自らの足場を失った時に初めて、その尊さを認識するような愚かさは、「自立」とは呼べないはずです。目指すものに対してまだまだ未熟である自分を認識しながらも、だからこそ、他者の存在を受け入れ、自分を大切にするように他者も大切にしながら生きる。ここに、「自立」の本質があるように思います。もちろん、他者に依存したり従属したりする関係とは全く異なります。
総合型選抜などのような入試の指導には、メンタリングメソッドが取り入れられるケースが多くありますが、この指導方法の本当の意味は、「自立」を醸成するプロセスを示すものであって、会話術やコミュニケーション術のようなノウハウではありません。今回ご紹介したエピソードは、私にとって、そんなことに気付かされた事例でした。
親子だからこそ実践できるメンタリングは、きっと様々な形があることと思います。そして、親子によるメンタリングが、真の意味での「自立」の原体験となれば、それはとても素敵なことだと思います。
次回は、このメンタリングのアプローチをさらに具体化するための「ポートフォリオ」について、お伝えする予定です。
ぜひ、お楽しみに。